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伝統美術の館
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庄屋屋敷は、古美術の世界。

伝統美術の館について

伝統美術の館

江戸時代の古九谷・吉田屋の貴重な美術品の展示をメインとした館。明治時代に建てられた庄屋屋敷を移築。柔らかな和紙の照明が情緒豊な空間を創り上げています。
現代ではなかなか目にふれる機会の少ない黒く太い杉の木は圧巻です。また、本間からは自然あふれる様々な緑をお楽しみいたたげます。まさに、和の文化と自然、心休まる佇まいとなっております。

伝統美術の館の古九谷、吉田屋

伝統美術の館

近代・現代作家の作品コーナー

館内には「色絵芭蕉葉文平鉢」をはじめとする古九谷から、吉田屋、松山窯、宮本屋窯の再興九谷、近代・現代作家の作品が収集されています。

古九谷

九谷焼を語るときに忘れてはならないのは、加賀前田藩の支藩、大聖寺藩(現在の加賀市)の初代藩主、前田利治。藩内での焼き物の隆盛を願い、陶工・後藤才治郎を有田の地に学ばせるとともに、加賀の奥地「九谷村」で焼かせたのが九谷焼の起こりであり、「古九谷」の名で今に伝わっています。

吉田屋

40年で途絶えた古九谷。その美しさに魅せられた豊田伝右衛門が120年後にあたる文政7年(1824)に古九谷の技法を復活させます。屋号を「吉田屋」としたことから、この再興九谷は「吉田屋」と呼ばれるようになりました。

色絵芭蕉葉文平鉢(江戸初期 古九谷)

色絵芭蕉葉文平鉢(江戸初期 古九谷)

(左)赤絵彩色金彩瑞獣文筆筒(江戸後期 宮本屋窯)(中)赤絵彩色金彩牡丹獅子図硯屏(江戸後期 宮本屋窯)(右)赤絵彩色金彩花鳥文水注(江戸後期 宮本屋窯)

(左)赤絵彩色金彩瑞獣文筆筒(江戸後期 宮本屋窯)
(中)赤絵彩色金彩牡丹獅子図硯屏(江戸後期 宮本屋窯)
(右)赤絵彩色金彩花鳥文水注(江戸後期 宮本屋窯)

色絵菊唐草文四方鉢(江戸後期 吉田屋)

色絵菊唐草文四方鉢(江戸後期 吉田屋)

桐葉文ちらし鉢(江戸後期 松山窯)

桐葉文ちらし鉢(江戸後期 松山窯)

古九谷と再興九谷の魅力

加賀藩三代藩主・前田利常は、武治の加賀藩を文化の加賀藩に政策転換をさせた名君として知られる。その文化政策が百万石の財力と融合して、当時の加賀は当代一流の文化人の交流の場として栄えていました。
九谷焼の事業を企画したのは、加賀前田藩の支藩である大聖寺藩(現在の加賀市)の初代藩主・前田利治。江戸時代前期の明暦年間(1655.1658)、陶工・後藤才次郎が有田で製陶法を学び、現在の加賀市奥地の九谷で焼いたのが最初で、諸般の理由から約40年間で廃絶。この約40年間の作品が特に「古九谷」と呼ばれています。
古九谷は17世紀以降、日本で作られた色絵磁器の中でも、有田の柿右衛門、古伊万里、色鍋島や京都の仁清などと共に高く評価されています。

以降80年間、九谷焼は空白のときが続くが、小松の若杉焼で磁器生産に成功したことを受け、かつて古九谷を生み出した大聖寺藩でも、もう一度あのすばらしい古九谷のような磁器を復活しようという動きが興ります。
その中心人物が大聖寺の豪商・豊田伝右衛門でした。彼は文政7年(1824)、自らの私財を投入し、九谷村の古九谷窯跡の横に登窯を築き、翌年九谷焼を焼き始めます。古九谷と並び称される「吉田屋(豊田家の屋号)」の誕生です。しかし、2年もたたないうちに山代温泉の越中谷に窯を移してしまう。九谷村の山は雪深く、交通が不便だったからです。しかし、こうした不便は開窯前から分かっていたはずであり、どうして最初に九谷村で開窯したのかという疑問が残ります。
それは、当時から焼物の名称は最初に焼かれた場所の地名が付けられるのが一般的であり、最初から山代で始めたのでは《山代焼》になってしまい、決して九谷焼の復活にはならないと考えたからであろう。こうした豊田伝右衛門の深慮によって九谷焼は復活し、現在まで続いてました。